2009年11月29日日曜日

日本の「安心」はなぜ消えたのか。

 日本の「安心」はなぜ消えたのか。
-社会心理学から見た現在日本の問題点-(山岸俊男)を読む。
この本は、個々の人間は合理的に行動するとの前提に立ち、そのような個人の行動を社会として集計するとどうなるかを分析した本である。個人の行動の積み上げが社会を形成するという経済学でいうところの方法論としての個人主義をベースとするが、社会と独立して個々人が行動するのではなく、個人の感情・心理が社会に影響し、その社会がまた個人の感情・心理・行動を規定するという方法論に基づいている。個人の行動的合理性ではなく、個人の認識的合理性に基づくことにより、社会が個人を規定する関係も分析している。
分かりやすく言うと、「情けは人のためならず」つまり利他的に行動すると、結局はまわりまわって自分に利益が戻ってくると個人が認識するすることにより、利他的行動をするという考え方である。認識論・心理を入れた進化ゲームで、経済、経営、社会さらには法学の分析に適用できると思う。
この方法論で、日本において、村を中心とした閉鎖的で相互監視が効いた「安心社会」が崩壊したととく。精神論で安心社会を取り戻すのではなく、オープンで他人を「信頼できる社会」の仕組みを整備すべきと説く。論理的で切り口の斬新さがうかがえる名著である。


 心の中にある「人間性」の本質が分かれば分かるほど、その性質をうまく利用することによって社会の中にあるさまざまな問題が解決することが可能になるという基本的アプローチをとる。
 このアプローチは、「心の教育」や精神論では問題は解決できず、それを許さない社会の仕組み(許されないと認識する仕組み)を作ることが必要と説く。
 例えば、「いじめ」も、「いじめをさせない」ことにあるのではなく、「いじめを許さない」環境を作ることが重要と説く。具体的には以下の分析を行っていく。
 日本人は、なぜ会社人間か。
日本のサラリーマンが、会社に忠誠を示すのは、そうやって振舞うほうが日本の社会においてもっとも適した行動であるからに他ならない。つまり会社に対して忠誠心を示したほうが何かと得をするからそうしているに過ぎない。
具体的な実験で、日本人のメンタリティを分析していく。
4本の同じPENと1本だけ違うペンの合計5本からPENを1本選ぶ実験をしたところ、日本人は、目の前に他人がいると一本きりのPENを選んだ人は23%しかいなかったのに対し、目の前に他人がいないと選ぶ率は35%に跳ね上がる。つまり、日本人の場合「自分の選択によって他人に迷惑をかける可能性がある」という前提で行動するのがデフォルト戦略になっている。一方アメリカ人は、「自分の選択はだれに迷惑をかけるわけではない」という前提で行動するのがデフォルト戦略になっているとの仮説を提示する。
 「他人は集団主義だけれども、自分は個人主義だ」という集団主義のパラドクスがある。これは、
人が見ているときは集団主義的に振舞っているので、その態度から推定した結果「私とは違って
周りの人たちは集団主義的なこころの持ち主だ」と思ってしまうという話である。
このように「他の人たちは個人主義者に批判的だろうと思い込んでしまうことで、実際にはそうは思っていなくても、個人主義者が批判されてしまう現実が生まれてしまう。そして、いったんこうした現実が作られてしまうと、みんなが心ならずもそれに合わせて行動しなくてはならなくなってしまう。
また違うアンケートでは、たいていの人は信頼できる答える比率がアメリカ人と日本人では大きく子異なるようだ。これに対する回答は、アメリカ人:47%、日本人:26%である。
これより、日本は、人々の結びつきのつよい集団主義が根底に流れていると説く。
つまり、以下のメカニズムである。人々の結びつきの強い集団主義社会(例:農村)では、メンバーがお互いを監視し、何かあった時に制裁を加えるメカニズムが社内の中にしっかりと作られている。つまりこのメカニズムこそがメンバーたちに「安心」を保障しているのであって、個々のメンバーは他の仲間たちを「信頼」しているわけではない。農村のような集団主義的社会とは本質的に「信頼」を必要としない社会であり、逆に都会のようないわば個人主義的な社会とは本質的に「信頼」を必要とする社会である。日本人の強調的な行動は、あくまで相手が「身内」であるときに限られ、未知の相手、「よそ者」と一緒に作業をすることはリスクが高いということに現れていると説く。
日本人が正直で誠実であったから約束を守ったということではなく、日本という集団主義社会の仕組みが、契約書に変わって「安心」を保障してくれていたとのことである。
しかしながら、日本経済は、集団主義の特性を最大限に生かす形で発展してきたが、現在は集団主義な要素は否定されてきた。
安心社会は、実は「正直ものである」や「約束を守る」といった美徳を必要としない社会であった。
その中に暮らしている限りは、相手が信頼できるかどうかを考える必要がない。
したがって日本では「旅の恥はかき捨て」は一般的となる。
信頼社会で生き延びていくためには、他人を信頼するこころの傾向をもったほうが有利なので、
他者に対する信頼感が高くなっていく。それに対し、安心社会では、相手が信頼できるかどうかといった「査定」そのものが必要なく、だれと付き合うことがもっとも安心をもたらしてくれるかという関係性検知能力が求められる。また集団内部の力関係、人間関係を正確に読み取ることが重要であり、集団内部の秩序や安定性が揺らぐことには否定的になる。
社会には、「どうせ自分ひとりがルールをまもったところで他の人は守らないので意味がない」という社会的デイレンマが生じる。これを防ぐには、個々人の行動や意識の変革によって解決しようとするのではなく、社会そのものが行動を監視して「抜け駆け」を許さないようにすることが必要である。
ある比率を超えると協力行動の安定状態になるが、その比率を超えないと非協力行動の安定状態になってしまうという臨海質量という概念に注目する。この現象より以下のことが言える。
①社会的ジレンマを解決し、人々の間の協力関係を作り出すには、
 最初から全員に働きかける必要はない。
②初期状態が臨海質量に達していなかったら非協力の安定状態達し
 てしまう。これを安定状態まで転換するのはなかなか大変である。
 今の日本では、安心社会の枠組みが崩壊しつつあるので、本来ならば、他人との協力関係を
構築していく信頼社会へ移行しなくてはならない。
つまり正直者が得をする社会を作っていくことが必要であり、そためには、「制度」「法律」を作っていくことが不可欠であると説く。つまり「信頼社会」の構築においては、社会制度の充実ことに法制度の整備がカギになる。そのような考えでネット社会を見てみると、ネット社会での「評判の力」が制度・法律と同様の効果を及ぼすと説く。ネットでのネガティブ評価は別名で再参入できるが、ポジティブ評価は地道に取引実績を上げていくしかないので、ポジティブ評価を活用していくべきという。
最後に、精神論の武士道とルールの商人道を、以下のように定義ウし、商人道の重要性を説いている。
メンバー同士の相互監視や制裁という仕掛けを通じて、人間同士の結びつきの不確実さを解消していくのが安心社会であり、これは武士道のモラル体系に近い。つまり規律遵守。位階尊重。忠実たれ。伝統堅持の社会である。それに対して、社会が提供する「安心」に頼るのではなく、自らの責任でリスクを覚悟で他者と人間関係を積極的に結んでいく信頼社会が、これは商人道のモラル体系に近い。この商人道はオープンでありルール重視なので、今後グロ-バル化する日本には必要なモラル体系と説く。商人のモラル体系のよさを再認識する論理であった。
この主張は、「市場の倫理 統治の倫理」ジェイコブズに基づいているとのことで、別途読んでみることとしたい。

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