2012年10月3日水曜日

「北京大学中国経済講義」

経済学の本はたまには読むが、ゲーム論や組織論を中心としたもので、現在の 実際の経済を知

るというよりも、経営に役立つ体系的な新しい視点を 得るためであることが多い。

今回は、発展中の中国経済についてその政策を最新の経済理論を使って 分析し、さらには政策

の実際の効果を検証してきた大変興味深い本を 読んだ。 中国経済のポテンシャリティや今後の

課題を体系的に理解できるだけで なく、経済学が現実の経済を理解し、改革するのに効果的であ

ることを 理解できた。

また経済学に基づく政策の違いが、国家のパフォーマンス に大きな影響を与えることも理解でき

た。
 「北京大学中国経済講義」 林毅夫(Justin Yifu Lin) 内容は、北京大学で1994年から2008年

まで「中国経済特論」として 講義されたものがベースとなっており、歴史から理論までバランスよく

書かれており、中国経済を体系的に理解するための最良の書籍といえる。
 
この本では、以下の5つの質問に答えていく。

問1:なぜ、産業革命前に世界でもっとも大きく高度な文明を持っていた 中国はその後欧米諸国

       に大きく引き離されてしまったのか。

問2:なぜ、1970年代末に始まった改革開放以前の中国経済のパフォーマンス が悪く、改革

       以降に奇跡的な発展を遂げたのか。

問3:なぜ、改革開放の過程で、中国は景気変動、金融システムの脆弱性、 国有企業改革の難し

       さ、地域間所得格差の拡大、そして所得分配の 公平さに悩まされてきたのか。

 問4:21世紀における経済の急速かつ健全な発展を維持するために、 中国経済のどのような側

        面が改革されるべきか。

問5:中国の経済成長は真実なのか。為替レートはどのような方向に 進めるべきか。

1.何故産業革命が起きなかったのか。

まずは、「なぜ、科学革命と産業革命が中国で起きなかったのか。」の問いを 立て、以下のように

回答する。問1への回答である。 「発明が主に農民や職人の経験に基づいて行われていた前近代

においては 中国は人口の多さゆえに、優位性を持っていたが、西洋の産業革命と共に 優位性は

失われた。 産業革命には「数学」と経験ベースの試行錯誤から実験ベースでの試行錯誤 (「対照

実験」)とを特徴とする科学革命が必要であった。  

中国では、科挙制度で有能な人間に四書五経を勉強させ、数学や対照実験を  学ばせる時間を

作らせなかったが故に、科学革命を起こせなかった。」

2.何故社会主義革命が起きたのか。

 次に、中国で何故社会主義革命が起きたかを「近代の屈辱と社会主義革命」という 章で説明す

る。 1840年のアヘン戦争で英国に敗北しその後フランス、日本、8カ国連合軍に 破れ、超大国

の主権は屈辱的な方法で侵害された。 これに対し、中国知識人は、洋務運動で救国を果たそうと

した。 洋務運動のスローガンは「中学為体、洋学為用」(中国の形而上学を中心におき、 西洋の

形而下学をそのために利用する)であり、それは儒教に基づく古い社会制度 や倫理的価値をその

ままにして、西洋文明の器具や製品を利用するというもので あった。しかし、日清戦争に負けたこ

とにより、社会制度をそのままでは駄目と 考え、日本の事例に倣って科挙制度を廃止し、立憲君

主制を確立しなければなら ないという動きとなった。 帝国主義と封建主義に反対する五四運動の

スローガンは、「民主」と「科学」で あった。 中国人の間には西洋恐怖があり、これを克服するた

め、一つのグループは西洋化を 提唱し、もう一つのグループは社会主義を提唱した。1921年に

中国共産党が 設立された。つまり西欧列強に対応するために社会主義に移行した。 中国共産党

は、多くの運動と暴動を実施したが、初めは、すべて失敗に終わった。

ロシアと中国では、異なる条件下で労働者の暴動は起きたので、全く異なる結果と なった。 ロシア

では産業は都市に集中しており、その資本は主として貴族が所有していた。 労働者の暴動が起き

るとツアー皇帝が軍隊を派遣して暴動を鎮圧した。 これは、皇帝は大衆の支持と政権の正当性を

失った。 一方、中国では、産業は天津、上海、武漢、福州などの都市にある外国の租界に 集中し

ていた。労働者の暴動が起きると、租界を持つ外国政府が軍隊を派遣して 鎮圧した。これは中国

の支配政党の人気を高めるという反対の結果を招いた。 中国では、都市での暴動ではなく、毛沢

東の「農村から都市を包囲する」戦略 によって初めて革命が成功した。

 中国農村部では、総人口の5%の地主が耕地の26%を所有し、総人口の68% の貧しい農民は

耕地の22%しか所有していない(1950年代)という大きな 貧富の差がある。

この状況なので、地主から土地を没収し、農民に与える中国 共産党の決定は農民から大きな支

持を得た。また都市では多数の小さな商工業 者は民族資本により所有され、疎開にある工場は

一握りの官僚資本である蒋、 宋、孔、陳が所有しており、毛沢東はこの四大家族を革命の対象と

したので、 大衆の支持を得ることができた。

3.発展途上国からの経済発展

中国人は、長い間、強力な国防がなければ、外国に打ち負かされると考えており、 強力な国防を

持つためには、強力な軍需産業と重工業が必要であると考え、 1952から大規模な国家建設プロジ

ェクトを立ち上げた。
重工業優先する発展戦略は、

① 建設期間は5年から10年と非常に長い。

② 重工業のための機械設備を輸入しなければならない。

③ 重工業の初期投資は巨額に上る。

が必要である。

それに対し、遅れた貧しい途上国は

① ほとんどの労働者は農民で、資本蓄積が少ない。希少な資本は高い資本 コストに繋がる。

②輸出は最小限に抑えられており、外貨は大変貴重である。

③農業地域は広く、貯蓄が分散されているため、投資のための資金集めは きわめて困難である。

 銀行へ預金しない。 という現状である。

 つまり、重工業の特徴と途上国の現実とは大きく矛盾している。

 第1に発展途上国は建設期間の長いプロジェクトに伴う高い金利コストを支払う余裕がない。

 第2に限られた外貨準備や高価な外国為替の下で、高価な設備や機械を輸入することは非常に

 難しい。

 第3に余剰清の少ない農業国では重工業を発展させるための資本調達が極めて困難である。

 しかしながら、途上国では、経済の要素賦存に基づく比較優位に反したキャッチアップ 戦略がとら

れることが多く、成長が持続できないことが多い。

4比較優位に基づく発展戦略  

著者は、上記のような経済の論理に基づかない成長戦略を否定し、経済論理に基づいた 成長戦

略を推奨する。そのために、まずは概念の定義を行う。  著者の理論のポイントでもある。

(1)概念の定義  企業の「自生能力」と「要素賦存」  「企業の自生能力」とは開放的で自由で競

  争的な市場の中で、正常に経営されている企業が、 外部の支援と保護がなくても、社会的に

  許容される正常な利潤を得る能力のこと。  

 開放的で競争的な市場では、企業が選択する技術は資本と労働の相対価格を示す等費用曲線

に依存する。 要素賦存構造によって蹴ってされる比較優位に合わない選択は、政府の保護と補助

金が 必要となり、企業の自生能力をなくしてしまう。

(2)比較優位に伴う発展戦略 -著者の理論のポイント-   

人為的に産業と技術の構造を高度化すると、既存の要素賦存構造によって決定される 比較優位

に反することになり、価格のゆがみと低効率をもたらしてしまう。 したがって産業構造と技術構造を

高度化し、効率を最大化するためには、その原因で ある要素賦存構造を変えなければならない。

 そのためには、各生産期間における余剰を増やし、資本として蓄積される余剰の割合を 高めるこ

とが必要である。また資本蓄積の割合が高ければ、要素賦存の高度化が早くなる。 超越戦略で

は、非常に短い期間に驚くべきスピードで投資資金を動員することができるが、 その反面、蓄積さ

れた資本は常に比較優位のない産業に投下されてしまう。 その結果経済は非効率的になり、長期

にわたって停滞する可能性がある。 重工業は都市に多くの雇用をもたらさないため、政府が都市

部における高い失業を さけるため、労働移動を制限し都市化が遅れるか、あるいは多くの途上国

の都市に 見られるような多量のスラムが現れる。 比較優位戦略が実施された場合、労働集約型

産業が推奨され、より多くの雇用を都市 住民だけでなく、農村からの出稼ぎ労働者にも提供するこ

とができる。


5.著者理論による中国分析事例

(1)農村改革と三農問題

土地改革は1949年から1952年の間に実施されたが、農業合作運動は1953年に始まった。

1959年~1961年までの3年間における農業危機の後、生産隊を採算単位とする新しいシステ

ムが1962年に始まり、1978年まで続いた。

1978年での農業発展の問題の総括を行い、これらを解決する政策を取った。

① 人為的に低く設定された買い付け価格は農民たちの労働意欲を低下させた。


② 農産物市場が廃止された後、農村部では自給自足の経済に逆戻りした。


③ 生産隊の規模は過大で、人々のやる気を損なった。


④ 専門的分業が欠如し、農業は大変非効率的であった。


(2)都市改革と残された問題

 1978年以降の改革は、放権譲利益(権限委譲、利益譲渡)局面と財産権明確化

 局面において、企業の経営自主権拡大から始め、労働者の働くインセンティブを高め、最終的

 には生産性を改善しようとした。企業は毎年国に一定額の利潤を上納し、超過部分については、

 国と企業の間で一定の比率で分配する請負制を導入した。

しかしこの請負制は一部の工場長や総経理に一見合法的な手段で個人的な利益を追求するよう

に誘導した。親戚や家族方法外な値段で原材料を調達する。

この漸進的な改革は大きな成果を上げてきた。

 第1に国有部門の総要素生産性は2.4%、非国有部門5.6%と比べて低いが、以前の0.5%よ

 りは上昇した。

 第2に工業における国有企業の割合は急速に低下した。1978年には3/4であったが、2000

 年には1/4に低下した。

 第3に、経済は開放された。1978年には外国貿易はGDPの9.9%であったが、2009年に

 は44.7%となった。1979年から2009年までの平均成長率は9.9%を達成した。


6.著者の提言

 (1) 金融改革

 80%の銀行融資が国有企業に行き、中小企業が融資難に陥っている。1983年に国が国有企

 業に対する財政資金の投入を中止したため、国有企業は補充金を得るため金融市場に依存

 し始めた。現在の発展段階において、中国の金融システムの効率性を向上させるために、比較

優位を持つ労働集約型産業、資金需要の少ない中小企業、有能でモラルハザードのない企業

家に資金を配分すべきである。これらの企業が最も必要なのが、中小の地方銀行や金融機関か

らの資金調達である。

以上ポイントを整理した。


中国経済は、要素賦存の比較優位に基づき、外部の技術を比較的安く取得しながら徐々に資本

型経済に成長発展してきていると説く。


2012年9月29日の週刊『東洋経済』では、著者は技術革新のため投資をすればあと20年は

8%成長が可能と書いており、また政府の役割を重視したこのモデルを「中国モデル」ではなく

日本、韓国を含めた「東アジアモデル」だとと述べている。

すべて結論が正しいとは思わないが、経済運営に直接役立つ経済学の息遣いのようなものが

感じられる書籍であった。