2011年5月30日月曜日

社会学を学ぶ(内田隆三)

「小室直樹の思想と学問」を読んでから、社会学に関する関心が呼び
覚まされた。小室さんが社会学を学び、師と仰いだタルコット・パー
ソンズが気になり出した。いきなりパーソンズにいくのではなく、周辺
を理解しようと、「社会システム論」や「情報と自己組織性」に関する
本を拾い読みしている。
物理システムと社会システムの違い等分かりやすい話もあったが、一般
的には抽象的な議論が多く、軽く読んで理解できるようなものではない。
その中で、社会学の歴史の中で、分かりやすく「社会システム論」を説明
している書籍が見つかった。著者の思考の歴史や時代背景も書いてあり、
大変興味深く読むことができた。
それは、『社会学を学ぶ』(内田隆三)である。
1969年に京都大学の文学部に入学して、現在は東京大学の教授で
あるが、その間の時代背景と著者の思考経験と関連つけながら、社会
学的な知の布置がその本質的な部分でどのような変遷をたどってきた
のか、またその深い可能性がどこにあったのかを書いている。



1.社会学の大まかな歴史
社会学は19世紀における産業資本主義の抱える諸問題を研究してきており、
資本主義がもたらした歴史の「現在への問い」を設立動機としている。
オーギュスト・コント、ハーバード・スペンサーらの仕事の後を受け、
エミール・デリュケーム、マックスウエーバ、、ゲオルク・ジンメルらの
精緻な理論的研究が輩出したように19世紀末また第一次大戦へいたる
ころにかけて、社会学はその古典的な達成期を迎えた。
アメリカでは、20世紀初頭から二つの大戦の開戦期のころにかけて、
西欧の社会学の影響を受けながら、ソースタイン・ヴェブレン、
C・H・クーリー、G・H・ミード、W・I・トマス、R・E・
バークに代表されるように、経済学や社会心理学、人類学などの隣接
領域と交わりながら、多彩な研究が花開いていく。
第一次大戦の後に生じるのは、20世紀社会学の基本的な磁場の形成
である。
それらは社会学における、①自己反省の試み、②形式化の試みを、
大きな潮流として含んでいる。
「反省的なまなざし」としてカールマンハイムのマルクス主義のイデ
オロギー批判、ゲオルグルカーチの『歴史と階級意識』の問題を受け
止めながら、その限界を相対化するべく「知識の存在拘束性」という
概念を立て、知識社会学という「自己反省」の様式を導入した。
この反省に少し遅れて生じたのは、タルコット・パーソンズによる総合
と形式化の試みである。パーシンズはデユルケームと代表される実証
主義の系譜とウエーバに代表される観念論の系譜とを方法論的に接続
することを目指したが、それはまず両者の理論を同一の地平に吸収
することを要求した。
「反省」と「形式化」は20世紀社会学の二つの大きな軸線であり、
反省はマルクス主義的な「批判」の言説と相関していたし、形式化は
機能主義的な「システム論」の言説と相関していた。
この二つの試みを同時に遂行しようとしたのでニコラス・ルーマンで
ある。

2.デユルケームの実証主義
デュルケームが示したのは、社会のありうようは一定の規則性をもって
諸個人の行為の様式を拘束しており、しかもそれは実証的な客観性をもっ
ていることである。社会的事実は
①諸個人の意識から見れば外在的なものであるが、
②結果として諸個人の行為のありようを強く拘束している。
しかも
③社会的事実のもつ拘束力は逃れがたく、
所与の社会の全域で「普遍的な力」として働いている。
社会的事実は所与の社会で必然性をもって生起する。社会学の生命線は、
具体的で経験的な出来事との相関の上で何かを語ることにある。
さまざまな社会的事実の「作用原因」としての社会とは、何か実体化でき
るような第一原因ではなく、むしろその具体的な効果自身の内に存在する。

3.ウェーバーの行為理論
ウエーバによれば、社会学とは、社会的行為をその主観的に思念された
意味(動機)に従って理解し、行為の家庭および結果を因果的に説明する
科学である。主観的に思念された意味とは、行為者の状況に対する
「志向的な関係」のことである。意味があり、理解の対象となる社会的
行為には次の4つの類型がある。
①「目的合理的行為」
 結果としいて合理的に追求され考慮される自分の目的のために条件
 や手段として利用するような行為。
②「価値合理的行為」
 ある行動の独自の絶対的価値―倫理的、美的、宗教的、その他―その
 ものへの、結果を度外視した、意識的な信仰による行為。
③「情緒的行為」
 直接の感情や気分による行為。
④「伝統的行為」
 身に付いた習慣による行為。
理念型は、現実に起こった出来事の特徴を調べ、その逸脱や偏差を測定
するための理想的標準として設定される。社会学の課題はこのような
理念型を構築し、それを用いて、現実の社会現象や行為の意味を理解
することにある。

4.パーソンズの構想
 パーソンズが乗り越えようとしたのは、ウエーバの「行為」理論と
ともに、デユルケームの「社会的事実」の理論であった。
デユルケームの理論は規範の拘束力が経験的な準拠を超えて、超越
論的な仕方でセットされているように見える。
それは規範の拘束力の根拠を「集団の情緒的熱狂」というような超越
論的な事実性に還元しているように見える。
 他方ウエーバのいう理念方とは歴史的事象のいくつかの要素を理想
的な形で再構成した一種の理想的な可能性のことである。
理念型に基づく方法論はモザイク的で記述的であり、しかもフィク
ションと現実という二分法をとっている。
「構造―機能分析」では、社会システムの同一性を標識し、安定的で、
常数とみなしうる部分を「構造」として取り出し、他の諸要素はこの
構造を維持する上でどのような「機能」(あるいは逆機能)を果たして
いるのかが明らかにされる。
システムにおいて構造が維持されていることを一種の均衡状態とみなし、
この均衡条件を明らかにすることが構造―機能分析の重要な焦点に
なるのである。構造とは社会システムがその同一性を維持するために
是非とも充たさなければならない機能的要件の集合であるといえよう。
実証主義的なスタンスでは十分に説明できない規範的秩序の形成をー
集団の超越論的な経験ではなく、相互的な行為の過程に求めた。

5.物象化
物象化というのは、人間の労働生産物が「商品」という携帯を取るとき
に生じている現象である。
物が商品となるのは、それを売買する人と人との社会関係を通じてである。
商品は何らかの使用に役立つという意味で「使用価値」をもつと同時に、
いくれで買えるのかという意味で一定の「交換価値」を持っている。
物の交換価値は、それを生み出した労働の社会的性格に由来している。
この由来がすっかり忘れ去られること、そしてその結果、物の交換価値
が物それ自身の属性のように実体化されてしまうこと。
これが「物象化」である。
「人と人との関係が、当事者たちの意識に、物象のように映現する事態。」
物にとって「より以上の物」である意味や価値といった「ideal」な次元の
形象は、共同主観的な構造、言い換えれば人々の共同連関=交換のシステム
の媒介を受けて成立している。
意味や価値が「より以上の物」として通有していることは、そうした物が
循環する領域が「共同主観性の場」として、つまりひとつの「社会」として
成立している証である。
物象化とは本質的には「社会性の成立」を標識する現象である。

6.構造主義
言語は①「形態素」を基本単位とする有意味的な水準と②それ自身はもは
や意味を有しない、「弁別特性」の束からなる音素の水準へ文節される。
音素の水準は、主体にとっては無意識的な水準である。そこにはひとつの
構造が存在しており、この「構造」は意味作用の可能性の条件として役立
っている。
言語のように有意味的な主体の行為に対して、その無意識の制約条件
として機能している「構造」を抉り出し、解明するのが構造主義である。
現代社会が主体の意識に還元できないもいのから成り立っているのでは
ないかという不安の意識と関係している。

6.現在の社会学
ボードリヤールの現代社会分析は、現代社会の営みや挙動には一定の
拘束条件が働いておりその拘束条件の働き方が明らかにされる。
先進的な資本主義社会のシステムに照準している。

ルーマンにおいては、社会システムはオートポイエーシス的(自己作成的)
なシステムであり、それ自身による継続的な自己生成の過程が問題になる。
パーソンズの場合は、こうした動態的な過程ではなく、既に均衡状態に
ある静態的な構造とその安定性が基本的な問題になっていた。
社会システムは、コミュニケ-ションのシステムは主体を前提としない
「創発的な現象」であり自己作成的に継続されていく意味連関の領域である。

アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』で示したのは、ヨーロッパの
歴史において神話からの離脱という「啓蒙」の過程は、他ならぬ啓蒙そのも
のの追及と発展による、再び「神話」に転落するという逆説である。
 啓蒙という文明化の過程、脱神話化の過程、つまり理性による「自然の
支配」の過程が、結局のところ、啓蒙が否定し、克服しようとしたはずの
野蛮と、暴力と、非理性の状態をもたらすというわけである。

私の関心あるところを著者の文章をそっくりそのまま抽出したところが
多いが、考え方のポイントをうまく抜き出せたと思う。

個々人が意識しないが、人とのつながりの中で、個々の行動を動機つけ
ている(価値有らしめている)ものを体系的に分析・整理するのが社会学
であることがよく理解できた。